プロフィール

2015031311080001はじめまして。管理人の中村です。

発達障害の息子と2人暮らしのシングルマザーです。

わたしが今日本に住んで子供と2人で暮らすようになるまでのことを書いていこうと思います。

 

子供が生まれたときの生活環境

彼が生まれたのは今から20年前の韓国です。

体重3.0k、身長50cmの正常分娩で1月に生まれました。

韓国の冬は寒いです。家の中はオンドルで暖かいのですが、外気は零下になるので外に出ると鼻の中が凍ります!

わたしにとって初めての子育てはわからないことばかりだったのですが、首が据わり、寝返りをするようになり、子供は順調に育つのだろうと思っていました。

音に敏感で寝てもすぐおきてしまったり、大勢の人がいるところに行くと激しく泣いてしばらく泣き止まないということがあり、神経質な子なのかなあと思ったことはありましたが、ほかの子と比べるようになるまでは特に問題がないのだと思っていました。

わたしはもともとよく話す性格ではなかったのですが、子供が生まれた当時、韓国はIMF経済危機で失業者が溢れていて、派遣社員だった元夫も仕事を転々とする失業者の一人でした。

国全体の雰囲気が重く危機感に覆われていたというか、我が家でさえ経済的にも厳しく明日の生活どうなるんだろう?子供を育てていけるんだろうか?といつも心には不安を抱えていました。

わたしがそんな状態だったので、愛情いっぱいに子供に話しかけたり、スキンシップしたり、笑顔を振りまいたりということができなかったですね。

そんな中で同じアパートに住んでいた、少し日本語が話せる韓国の女性がいたことはとても精神的に慰められました。

子供が一歳の誕生日を過ぎたころ風邪から肺炎をこじらせて病院に通院することになりました。

加湿器を一日中かけていなさいといわれましたが、その加湿器を買うお金もやっとでした。

肺炎には抗生物質を飲ませないといけないのですが、粉にして水に溶いてもなかなか飲んでくれず大変でした。

実際に生活するのにお金がないという現実は人の心を頑なにし、相手に対する思いやりや優しさも発揮することができません。

わたしたちの家庭は精神的にもとても大変な時期を過ごしていました。

彼が満2歳になっても言葉がでないので、そのころから病院や保育園や治療センターを転々とすることになりました。

当時は地方の病院の小児科の先生も、周りにも発達障害について知っている人はほとんどいませんでした。

男の子は言葉がおそいからそのうち話すようになるとか、父親も言葉を話すのが遅かったという話を聞いていましたが、普段の行動や子供らしくない動作などが気になっていました。それに同じぐらいの年の子供となんとなく違う違和感を感じていました。

言葉の壁、文化の違い、経済的困難、当時はパソコンもなく何をどうすればいいのかまったく手をつけられない状況でした。

父親はいましたが子供の治療に関心をもってくれる人ではなかったため、子供に関することはすべてわたしがしなければなりませんでした。

 

幼少期の様子

保育園に通う前に、電車で片道1時間かかる治療室に6ヶ月ほど通ったことがありますが、エレベーターが気に入ってしまって、駅に設置されているエレベーターに乗らないと気がすまないので、一駅ごとに電車から飛び出してエレベーターに乗り、次来た電車に乗るということをしていましたし、電車の中を動き回るので周りの目がとても気になりました。

行って帰ってくるのにとても時間がかかり、往復5時間以上かかっていました。

当時住んでいた所は同じ敷地内に高層アパートや4階建てのショッピングセンターがあり、周りはエレベーターばかりです。

息子は玄関のドアのノブに背が届くようになると、自分で鍵を開けて一人で家の外に出て行くようになりました。

今手が離せないとか、もう少し待って!といってもそれが通じません。ご飯が済んですぐだったり、夕飯の準備中だったり、そのつどついては行ったんですが、一日に何度もとなるといい加減疲れてくるわけですよ。

子供の後をついて行き、ちゃんと家まで一人で帰ってこれるか?ということもしてみました。家のこともしなければいけないので、帰ってくるのがわかると一人で行かせることもありました。

ある時はアイスクリームを手に持っていて、どっから持ってきちゃったんだ~~?!とスーパーにお金を払いにいったこともあります。

帰ってくるから自分の家はわかるんだ、今日もエレベーターを一回りしたら帰ってくるだろうと思っていたある日のことです。

出て行ってから帰ってきません。

普通なら20分くらいで帰ってくるのに、1時間経っても、2時間経っても帰ってきません。

いつものコースを回ってみましたがどこにもいません。

それでさすがに心配になってしまい、帰宅した夫に言いましたが「そのうち帰ってくるんだろう」とあまり気にも留めない様子です。

夜7時を回っても帰ってこないので警察に届けを出しにいきました。このときも夫は「疲れているんだから、あなたがいってくれば?」という対応でした。

警察では一応届けを受け取るけれども、自宅で待機していてくださいといわれます。届けを出して家に帰っても子供は帰っていません。気が気ではなく、どうしよう!どうしよう!と後悔するばかりです。

もしものことがあったらわたしのせいだ!ぼろぼろ涙が止まりません!警察からの連絡を待っていると、ガチャっと音がして一人で帰ってきました!夜11時半過ぎです!!!

どこか怪我していたり、服が破れていたりということはありませんでした。

いつもどおりに帰ってきたのです!

今までどこにいて、何をしてきたのか、誰かと会っていたのか、尋ねても答えてくれるわけもありません。

その日はすぐ寝てしまいましたが、寝顔を見ながらただ、ただ無事でよかった!と思いました・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

それからもう一人で出て行かないように、次の日に扉の上のほうに鍵を別につけて、出かけるときは必ず一緒に行くことにしました。

雨の日も雪の日も、台風の日も、暑い日も、、、それが何ヶ月か続いてからエレベーターに乗らなくなりました。

一人で遊ぶことも多く、音には敏感で見ているテレビを消されたり、11階のアパートの窓から部屋中のものを捨てたり、パニックを起こして人目構わず泣き叫んだり、目を離した瞬間いなくなって、親は必死に探してるのに子供は普通にその辺を歩いていたということが何度もあって、、、、何でこんなに大変なのかと子育てに自信をなくし、どうしたらいいものか途方にくれていました。

周りにはそんな子がいなかったので、相談できる人がいなくて本当に辛かったです。

お腹を痛めて産んだ子が普通の子と違う、何かにつけて問題を起こす、精神的にも幼かったわたしは神様は何でこんな試練を下さるのかとよく泣いていました。

親の反対を押し切って海外に飛び出したため、実家に泣き言を言うわけにもいかず、周りからは母親が外国人だから子供が言葉を話せないとか、しつけがなっていないと言われ、夫からはお前のせいだと責められ、子どもを置いて家をでてしまおうかと精神的にも追い詰められていました。

父方の親からはお祓いをしろと、韓国の儀式に参加させられ、お盆や旧正月は親戚全員が集まるので、その度じっとしていない子供を何時間も電車とバスを乗り継いでやっと連れて行くのでくたくたでした。

 

日常生活で不便に感じたことと、元夫の収集癖がエスカレートしていきました!

子供はよく家の中を走っていました。

あるときは下の階の人が1人暮らしのおばあさんです。

足音が響くので静かにして欲しい、迷惑になると何度か苦情を言われました。

元夫は昼間は家にいなので、いつも苦情を聞くのはわたしです。

引越しするたびに1階に住みたいということを伝えましたが、自分は1階が好きじゃないからという理由で聞いてくれません。

彼の趣味はアマチュア無線でしたが、はっきり言ってお金がかかる趣味なんです。

複数のアマチュア無線機、アンテナを集め、もっと通信を遠くに飛ばすためにタワーまで建てる始末です。

アマチュア無線機は韓国製はなく、KENWOODとかYAESUとか全部日本製です。

彼が言うには信号を遠くに飛ばすためには1階ではだめだというわけですね。

タクシーの運転手が無線で会話してる、あの感じですが、あれ家の中でずっとやられてると結構神経に来ます。

子供はあの音が嫌いで、すぐ無線機のスイッチを切ってしまうのです。それで夫には嫌がられていました。

無線機の種類ってトランシーバータイプからオールモードタイプまで、その金額は5万から30万円くらいします。

当時の日本円が韓国ウォンの13倍の価値があったことを考えても相当な金額です。

それ以外にも昔の真空管ラジオや手巻きの古時計、高さ2m以上ののヨーロッパ製の大きな柱時計、ステレオ、スピーカー、蓄音機、、、と、骨董品収集にはまりました。

一つ一つを海外から取り寄せて、その金額は5万円から50万円です。

あるときは何十年も経ったという松の盆栽に凝ったときもありましたね。

そのお金をどうしたのかというと、ボーナス払い、銀行から借入れ、ついには日本の親に出してもらえとか、、、もう書いてて情けなくなりますが、無線機に関してはわたしが日本人だから日本の会社に電話しろ、通訳しろ、取り寄せろとだんだん内容はエスカレートしていきました。

そんなことしている時ではないだろうと言うと、しまいには酒を飲んだあげく家中のものを破壊し始めます。

かなづちを振り回してテレビや照明器具のガラスをを割り始めた時は、本当に殺されると思って子供と家を飛び出しました!!!

そんなことが一度や二度ではなかったのです。

近くに住んでいる日本人のご主人に説得しに行ってもらったり、義弟や義父母に相談したりしましたが遠くに住んでいたので良くはなりませんでした。

精神的にストレスを受け、それが溜まりに溜まって、お酒の力で爆発するというパターンです。

そういうことが度重なり、子供の治療のことや将来のことを考えると一層不安になるのでした。

 

子供の成長に伴い日本に帰ることを考えるようになりました

感覚治療や言語治療に通わなければならないことを夫に伝えると、じゃああなたが働けば?、毎日家で何してんの?といわれます。

同じ立場の韓国のママ友に聞くと「それはおかしい!」と口をそろえて言われました。

よそのご主人は協力的で、手のかかる子供のことを考えてくれていましたが、うちの場合は家族のことより夫の趣味が最優先でした。

大学病院で子供の診断を受ける時にも一緒に行ってくれません。

慣れない韓国語で医療用語を説明されてもよくわからないといっても、いまだにハングルもできるようにならないのかといわれる始末です。

わたしが外国人であるために、父親でないといけない書類提出とか、子供の名前で銀行の通帳を作るとか、そういうことでつき合わされるのをひどく嫌がりました。

慣れない大学病院で検査を待つときの心細さといったら言葉には言い表せません。

不安で泣きそうになるのを必死にこらえていました。

保育園の連絡帳、病院への手続き、役所への提出書類など、元夫は一切してくれなかったので、わからない単語は全部自分で韓日辞典を引きながら覚えました。

「お母さんが外国人だから子どもが言葉がしゃべれない」 この言葉を聞くのが本当に嫌で必死に調べ、わからない言葉があれば辞書を引くというのが習慣になりました。

子どもが始めてハングルを覚える時に使う表を見ながら、声に出して発音練習をしました。特に日本人が苦手な発音を何十回も声に出しました。

そうしているうちに何年も韓国に住んでいる日本人より韓国語がうまくなり、韓国の人からも発音上手だね!韓国人みたい!と言われるほどになりました。

必死に努力しただけのことはありました。

そのうちに息子のように障害のある子どもと一般の子どもが一緒に通う保育園を見つけて、そこでお母さん達との交流を持つようになりました。

でもその当時はわたしがまだ韓国のお母さん達になじめなくて、精神的にも壁を作っていたように思います。

言語治療に通いながら特殊学級のある小学校に入学します。

小学校に入るときもとても不安でしたが、担任の先生にはとても恵まれて関心を持っていただけました。

どんな先生が担任になるかはとても大きなことです。変な先生に当たるとクラス全員から無視されるようなこともあります。先生の態度によって生徒達は変わるからです。

学校の授業についていけないのはしょうがないと思っていましたが、学年があがるごとに支援学校への転入を考えざるをえませんでした。中学、高校になると、受け入れてくれるところも少なくなっていくからです。

子供の将来について夫には相談していましたが、お互い考えていることがまったくかみ合わず、このまま韓国で暮らしていたらますます大変になるだろうと思いました。

そんな中、以前子どもが日本の支援学校に通っていたという韓国のお母さんに出会います。

その方に日本の支援学校を紹介してもらって平成25年3月に子供と2人で日本に帰りました。

 

日本の支援学校に転入してからの生活

息子はまったく日本語ができなかったので、先生の言葉は理解できないし環境は変わるしで大変なストレスだったろうと思います。

転入後の2週間、わたしは息子と一緒に支援学校で授業を受け、先生の言葉を通訳していました。

新しい環境になじめるかが心配でしたが、田舎の支援学校は自然に囲まれ、クラスは家庭的な温かい雰囲気でした。(1クラス5人の生徒に補助の先生も入れて先生が3人!)、生徒の能力に合わせて指導をしてくださるので転入してよかったと思いました。

次第に学校でも笑顔が見られるようになり、韓国にいたときには薬を飲んでいましたが、支援学校では必要ないということで飲まなくなりました。

日本に帰ってからはとにかくパソコンは必要だと思い、わたしはパソコンを購入し必死に情報を集めるようになりました。

住んでいるところが田舎であることと、子供を一人で家においておけないため、外に働きに行くよりも在宅ワークで収入を得ることができないかといろいろ試みました。

物販アフィリエイトの教材を買ってブログを何百と作ったり、ヤフオクで物を仕入れてアマゾンで販売する電脳せどりをしてみたり、、、、、でもまとまった収入になりませんでした!

変な商材を購入してしまったこともあり、生活費がない!!ということもありましたが、でも、不思議なことに必要最低限な分はちゃんと与えられて、飢えて死ぬということもありませんでした。

その後ブログを書くということに専念し、1年半ほど記事を書いているうちに、読んでくださる方やコメントをくださる方が少しずつ増えてきました。

そうして自分以外にも発達障害のお子さんを持つ親や、家族やパートナーや同僚が発達障害で悩みを抱えている方が随分いらっしゃるということを知りました。

 

発達障害のお子さん、子供の発達に不安を持つお母さんや家族の方のお手伝いができないか?と考えるようになりました

発達障害のお子さんの障害の程度にもよりますが、保育園などに預けられる前まで、母親と2人きりになる時間が多い時期が、発達障害のお子さんを持つお母様がいちばん大変な時期だと思います。

特に初めての子育てはママも新米で戸惑うことばかりなので、こだわりの強い子供にお手上げになるかもしれません。

うちの場合で言えば、周りの同い年の子供たちが絵カードの意味を理解し始めているのに息子はわかっていないようでした。

普通小さい子供はママがいなくなると大泣きしたり、外に行けばママの後をついていくのですが、息子は少しもじっとしていない子で、我が道を行くのでしょっちゅう迷子になってました。

手の使い方も不器用でした。

定型発達の子供よりできないことが沢山あって、この子は生涯こうなのか~と思うと先が真っ暗でした。

当時は自閉症は一生治らないと言われていたし、特に6才を過ぎるとそれ以上脳が発達しないという本を書いてくださった教育関係のエライ先生がいて、わたしはそれを信じてしまったのですORZ

でも、知的障害のある子供と定型発達の子どもが通う保育園に通い始めるようになってから、少しづつ変化が見えるようになりました。

子どもが保育園に通うようになったので、まずわたしが精神的に余裕が持てるようになり、同じ立場のお母さん達と情報交流ができるようになりました。

保育園の先生との連絡帳のやり取りでは、簡単な言葉は理解してますよ~、笑顔も見えるようになってきましたよ~という嬉しい報告ももらえるようになりました。

最初は半信半疑でしたが、ある朝、先生に渡す写真かなんかがあったので、「保育園にいったら先生にこれを渡してね。」と子供に見せながら送り出したのですが、その日の連絡帳で、お子さんが朝着いたらすぐ写真を先生にくれましたよ^^という返事が書いてありました!

言っていることがわかってる?!

その日子供をめちゃくちゃ褒めたのを覚えています。

その後の参観日や交流会では、先生の「○○取って来て」とかフルーツの盛ってあるお皿から「スイカちょうだい」とか、「○○ゴミ箱に捨ててね」などの言葉にちゃんと反応していて、随分わかるようになりましたよね~^^という、子供がちゃんと理解していることを確かめることができました!

そのとき先生の前で涙が止まらなかったのは言うまでもありません。

言葉の話せない子供は対話は難しいのですが、ほかの子や先生の言葉を聞きながら、ゆっくりインプットしています。時間はかかりますが少しずつ、でも確実に積みあがっているはずです。

はさみや箸も繰り返し練習することで使えるようになり、簡単な計算や読み書きもできるようになりました。

何かに特化した才能が見つかる時もありますね。

今いちばん大変!と思う方や、子育てが疲れた、もうやめたいと思う方がいらっしゃるなら、お子さんはママの言葉がちゃんとわかってますよ!とお伝えしたいです。

重度の発達障害の子供にどうせ言ってもわからない、何も考えてないと親や周囲の大人は思ってしまうのですが、自閉症の方の手記などを読むと全部わかっていると言います。

また、言葉の話せない子はその分敏感というか、相手の心の状態や雰囲気を感じ取るようなのです。

発達障害とはどんな障害で、どんな特徴があるのか、定型発達の人たちがどのように助けてあげればいいのか、学校の選び方、卒業後の進路、受けられる制度など、わたしたちが体験したことも記事にしていきます。

このブログを訪れてくださった方に少しでも助けになり、お役に立つ情報を提供できればと思います。

 

20年後、息子はこんなに大きくなりました!

2018年3月に支援学校を無事卒業した息子は、3月の終わりから地元の生活介護の事業所に通うことになりました。

新利用者歓迎会では全員が正装して迎えてくれるのだそうで、スーツを新調して参加しました。

今年入って来る利用者は一人だったそうですが、歓迎会では立派に挨拶できましたよと教えていただきました。(文字は読めるので用意してもらった簡単な文章を読んだそうです。)

学校からの切り替えがスムーズに行われ、事業所の方々も気を配ってくださるのでとても感謝だなあと思います。

生活介護では、クラフト、ファーム、リサイクル、食品加工などがあり、実習で経験したリサイクル班から始めることになりました。

事業所は9時半から15時半で、帰りは16時55分に帰宅します。

地元なので朝もゆっくりできるし、自然の中でのびのび過ごせるのでよいかなあと思います。

今も人が大勢いるところや賑やかな場所は苦手なようで、作業の合間に静かなところに移動するようですが、自分なりに居場所を見つけて過ごし方を考えているようです。

利用者さんは80人くらいいて、最初は人の多い食堂で食事を取ることもできなかったのですが、初めの頃に比べると随分慣れてきましたよ~とスタッフの方に言ってもらえるようになりました。

だんだん今の環境になれていくように、そして人との関わりの中で得ていくものがあればいいと思います^^

 

息子は学校を卒業し事業所を利用することになりましたが、これから生きていく時間の方ががもっと長いのです。

親はいつまで元気でいられるのか?

親の亡き後誰かが見てくれるのか?

兄弟がいる人は見てくれるでしょうか?

今は誰もが自分の生活で精一杯です。

国に期待できるでしょうか?

この先何が起こるかわからない、そんなときに経済的な余裕があればまだいいですが、自分の老後、子供の将来まで準備できているという方はどれほどいるでしょうか。

実際はほとんどの方が未来に不安を抱えていると思います。

わたしは日本に帰ってから、私と子供が幸せな未来を生きるために何ができるかと考えてみました。

ただ忙しく毎日を送っていてもなにも変わりません。何か始めなければとブログをはじめたのですが、経済的な不安や未来への心配はいつも付きまといます。

 

最近関心を持ってやっていることについて

在宅収入を得る方法をいろいろやってみたんですけど、お金を稼ぐというのはやはり簡単じゃありません。

なんとかぎりぎりの生活はできるけれど、いつもお金がないという焦りが心の中にあるわけです。

それで豊かに暮らしている人の考え方や行動を学ばなければならないのではないか?と情報を集めはじめました。

お金に困らなくなるには、成功するには、心が豊かになるためには、、、、自己啓発系の本やブログを読んでいくうちに、『豊かになるには価値を提供できる人間になることだ』という文字が目に入るようになりました。

最初はピンと来なかったです。

(ふーん、そうなんだ)と知識として理解しますが、それはそれ、現実は現実という感じでした。

わたしは教会に通っていますが、説教者の話がすごくいい話だった、感動したといいながら、それで満足していては今までと何も変わりません。

知識を学んだからといってそれを自分の生活に適応していかなければいけないのですが、今まではそうすることができませんでした。

思いが変われば行動が変わり、行動が変われば習慣が変わり、習慣が変われば人生が変わるという言葉を聞いたことがありますか?

みんなが成功したいし、すばらしい人生を生きたいと思うのですが、実際そうなれない人がほとんどなのは行動に移さないからだと言われます。

よい話を聞いてすごいと思うけれど、わたしには無理!と自分でやめてしまうのです。

よく成功者の今だけを見ていいな~と思いますが、成功者は目に見えない水面下の努力を必死にしてこられたということを理解できるまでに時間がかかりました。

成功者は寝る時間や娯楽の時間を返上して、ひたすら前だけを見て打ち込んでいた時期があったのです。

人間なので失敗してうまくいかなかったことも、気を落としてしまったことも数え切れなくらいあったはずです。

その目に見えない努力を見ないで、成功した姿だけを見ていてはいけないのだなあということがすこしづつわかるようになりました。

いろいろなセミナーに参加したり、音声セミナーを繰り返し聞いたりしています。

今までの自分が変わるには反復して自分の価値観を書き換えなければいけないようです。

今までの自分の人生を客観的に振返り分析してみることも必要なんだそうです。

今回プロフィールを追記しました。

昔のことを思い出して文字にするのは辛いかな~と怖かったのですが、ひとつひとつ整理してみると、それらのことがあったので今の自分があるんだなあと気づくことができました。

辛さ、悲しみ、情けなさ、愚かさ、とても誇れるような人生とはいえないけど、振返ってみれば今役に立っていることもあるからです。

・何にもしてくれない元ダンナのお陰でハングル上達したし!(韓国人と会話できるレベルです)

・そのハングルの実力を生かして韓国語の翻訳や通訳ができます。近所のおばちゃんにハングルを教えてます。

・こつこつ努力する忍耐力も付いたし!

・子供のお陰で謙虚になれたし!

・パソコンが使えるようになり、お小遣い程度は稼げます!

・ブログ書けるようになったし!

・人を観察できるようになったし!

・精神的に強くなったし!

あと海外に住んで見てわかったこともあったんです。

・韓国人の情の深さに感動しました。

・日本が恵まれた国だったということがわかりました。

・日本の常識が世界ではまったく通じないということがわかりました。

・多くの人の助けがあって今のわたしたちがあるんだなと思いました。

いろいろあったし、回り道もしたけど、頑張ったじゃん、わたし^^

 

障害のある子どもがいても、シングルマザーでも、幸せになれる方法はないだろうか?豊かになれるだろうか?

試行錯誤しながらわたしがたどり着いたのは、今までの自分の思いや習慣や行動を変えることだったのです。

障害のある子供を育てることだけでも大変なことでしょう。でも自分を責めたり、それを誰かのせいにしたり、国のせいにしたり、どうしてこうなったのかを外側に向けているだけでは状況はよくなっていきません。

『今の現実はあなたが創っている』-この言葉を何十回と聞いてきましたが、自分のものにはなっていませんでした。

あ~本当にそうだったなあとだんだんわかるようになって、変わりたい!と強く思うようになりました。

今は賃貸のアパートだけど将来は子供と二人の家に住んでいいんだ、いろいろなことに好奇心を持って知識を深めていいんだ、信頼できる仲間をつくって一緒にビジネスをしていいんだと思うようになりました。

息子の通う生活介護の施設に寄付できるくらいお金も稼いで、税金を町に沢山納める人になっていいんだと思うようになりました。

今まで当たり前だと思っていたことは、世間一般の常識であったり、親に言われてきたことだったり、今までの知識や経験や先入観による錯覚だったんだと気づくようになりました。

はじめは周りの子供と違う息子の問題行動ばかりに目が行き、どうすれば周りに合わせることができるか、迷惑をかけないようにできるかということに焦点を当てていましたが、周りと比べてもしょうがないし、子供のできるようになったことに目を向けたらどうだろうか、子供のよいところ、やさしいところに目を向けて、わたしの器を大きくして受け入れる姿勢が大事なんだと思うようになりました。

言葉で言うほど簡単ではありませんが、親の視点が変っていくと子供の違う面が見えてきて、受け止められるようになっただけ親の気持ちも軽くなっていくのです。

そうすると親の心が少し変わっただけで、子供がいとおしく思える瞬間があるのです。

親であるわたしの器が大きくなることにより、今よりもっと息子や周りの人が幸せになることでしょう。

障害児を持つお母さん達に元気になってほしい、そして心の豊かなお母さんたちが増えれば子供たちも幸せになり、更には障害のある方を受け入れる会社や事業所が活性化してほしい、世の中の偏見も変わってほしいと思います。

そのために必要ならお金を稼ぐし、心の持ち方の勉強もしていこうと思います。

 

さいごに、ここまで読んでくださったあなたへ心からの感謝と提案

半世紀の人生を振り返って結局わたしは何を求めていたのかな、どういう未来を望んでいたのかな?と考えるようになりました。自分を理解してくれて心許せる仲間がほしかったのかなと思います。

わたしはどうしたら心穏やかに暮らせるだろうかということを考えるようになりました。

人生を豊かに生きている人が増えれば、幸福度の高い人が増えれば、もっと日本は良くなるんじゃないかと思うようになりました。

だから自分が今よりもっと成長しよう!と思いました。

人生の生き方を知っている人に学び、環境を変化させ、付き合う人を変えようと思ったのです。

今までどおりに生きていたらこれからも同じような人生を送る、そうしたら絶対後悔すると思ったのです。

そういう気持ちで少しづつ意識していくと小さな変化が現れてきました。

わたしの価値観が変わってくると付き合う人達も変わってきました。

いちいち人の言葉に感情を左右されなくなってきました。

価値観を共有できる仲間作りをしたいと思うようになりました。

そのような仲間ができたらいちいち落ち込まないと思います。

そこからいろんなアイディアが生まれてきそうです。

 

これからの時代はパソコンやタブレットやスマートフォンが扱えるようになったほうが役に立つ時代です。

わたしの年代、50代以上の方はパソコンやスマホが使えないという人が結構周りにもいるんですが、本当に今からでも使えるようになったほうがいいと思います。

もうこの年でいいわ~!という人もいるんですけど、平均寿命はどんどん長くなっていて、100歳時代に突入しているんですよね。

今日本の100歳以上の方が約7万人、そのうち88%が女性だそうです。

これって人ごとではありませんよね?!

そして健康!これは本当に深刻な課題です。

わたしの母は今年80歳ですが、去年転んで大腿骨骨折の手術をしてから、一人では家の中も自由に歩けなくなってしまったんです。

動けなくなると本当に不自由で心まで苦しくなってくるのです。自分の健康は自分で管理しなければいけないと思います。

 

障害を持つ子供の親も年をとると、今度は自分の親の介護をする年代に入ります。

人生100歳まで生きることを考えたら、50代の人でもまだ半分残っています。

人生設計を再設定しないといけないのではありませんか?

わたしも障害を持つ子供の親として、人生の後半の目標を再設定しました。

心が穏やかで健康で、お金にも困らない、ずっと一緒にいたい仲間がいる、そんな人生を生きたいと思うのです。

自分の今までの先入観やこだわりを一旦おいといて、素直な気持ちで学んでいくと、今まで親や先生が教えてくれなかったこと、学校の勉強では学べなかったことが沢山見えてくるようになります。

今までの常識で考えていたことが全く違っていた!ということに気づくと世界が広がります。

この世に生まれてきたあなたも、あなたのお子さんも幸せになるために生まれてきたはずなんです。

発達障害の子供とお母さんの幸福度を上げる未来を一緒に作っていきませんか?

これからも子育てで人生に疲れてしまったお母さんに、今の現状をなんとかしたいと思っている方に役に立つ情報を発信し、実際にご本人やお母さんの悩みや経験談をお聞きし、シェアできればいいなと思っています。

よろしくお願いします。

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